県内文化資源詳細
将門記
項目 | 内容 |
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文化資源区分 | 歴史資料 / 歴史資料 |
名称 | 将門記 |
名称よみ | しょうもんき |
所在地 | 栃木県宇都宮市睦町2-2 |
市町等 | 宇都宮市 |
所有者/管理者 | 栃木県立博物館 |
公開状況 | 施設にお問い合わせください |
概要 | 平将門の乱の経過を記した軍記物語です。将門による坂東諸国制圧の情報を得た朝廷は、天慶3年(940)正月、将門を討伐した者に恩賞を与える旨の命令(追捕官符)を下しました。それは、将門を殺した者には五位以上の位階を授け、永く子孫に伝えることのできる功田を与えるという破格の内容でした(『日本紀略』ほか)。この効果は絶大で、坂東では将門追討の機運が高まっていきました。秀郷のほか、将門に父国香を殺害された平貞盛(将門の従兄弟)らは朝廷の求めに応じ、将門追討の任務を与えられました。特に秀郷のみが押領使(凶悪犯を捕らえる官職)に任命されたことは、朝廷は秀郷を将門討伐における坂東八か国のリーダーと捉えていたと考えられます。 もともと朝廷に反抗的であった秀郷でしたが、将門の勢力が下野国にも及ぶにつれて直接対峙することとなり、破格の恩賞を約束する朝廷の懐柔策に乗ったとみられます。本書によると「素より古き計有り」と評されるほど老練な軍略家であった秀郷は、「三兵の手」(三軍を動かす戦術)を用いて将門軍を動揺させました。 本場面には、天慶3年(940)2月、秀郷・貞盛連合軍によって下総国猿島郡(茨城県坂東市ほか)に追いつめられた将門は「神鏑」により討ち取られたとあります。史書『扶桑略記』によれば、このとき矢を放ったのは貞盛で、馬上から落ちた将門の首を斬ったのが秀郷とあるので、この記述が史実に近いものと考えられます。 |
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リンク | 栃木県立博物館HP |