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俵藤太物語絵巻 下巻

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俵藤太物語絵巻 下巻

項目 内容
文化資源区分 歴史資料 / 歴史資料
名称 俵藤太物語絵巻 下巻
名称よみ たわらのとうたものがたりえまき げかん
所在地 栃木県宇都宮市睦町2-2
所有者/管理者 栃木県立博物館
公開状況 施設にお問い合わせください
概要  天慶3年(940)3月、藤原秀郷は朝廷に対して将門討伐の報告を行いました。その功績により秀郷は従四位下に叙せられ、子孫に永く伝えることのできる功田を賜り、のちに下野守・武蔵守を歴任しました。一方、秀郷とともに戦った平貞盛に対しては従五位下への叙位と右馬助への任官が行われましたが、二人の恩賞を比較すると、秀郷に対する朝廷の厚遇ぶりがうかがえます。したがって、朝廷は秀郷を将門討伐の最高殊勲者と認めていたと考えられます。秀郷と貞盛に対する恩賞は破格でしたが、これらの処遇は同年正月に出された追捕官符においてすでに約束されたとおりでした。
 秀郷は、朝廷から東国で最有力の武将として認められ、のちに朱雀天皇から鎮守府将軍に任命されました(本場面)。鎮守府将軍とは、古代より東北の蝦夷を鎮めるため陸奥国(宮城県ほか)に置かれた軍政府である鎮守府の長官を指します。南北朝時代に北畠親房が記した有職故実書『職原抄』では、鎮守府将軍職は「武略の者でなければその任に当たらず」とあり、武芸と軍略に秀でる者が任命されることになっていました。また、同書には「代々将軍と称するは、鎮守府の将なり」とあり、本来将軍とは鎮守府将軍を指しました。『将門記』における秀郷の評価は、貞盛だけでは将門との勝負を決することができず、秀郷が「合力」し「古き計の厳しき所」であった秀郷の軍略があったからこそ将門を討伐できたとしています。まさに秀郷は鎮守府将軍にふさわしい「武略」を有していたと言えます。
 平将門の乱を鎮圧した秀郷の子孫は、鎮守府将軍あるいは京の治安維持にあたる検非違使に任命され、国家を守護する役割を期待されました。鎮守府将軍の職は平安時代後期まで代々秀郷の子孫(秀郷流藤原氏)が世襲し、まさに一族のアイデンティティとなりました。平安時代以降、全国に広がった秀郷流藤原氏は、京で活動した紀伊佐藤氏をはじめ、平泉の奥州藤原氏、関東の山内首藤氏、鎌田氏、波多野氏、そして下野の小山氏、那須氏、小野寺氏、藤姓足利氏など、各地で有力武士団として活躍しました。
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