県内文化資源詳細

壬生義雄書状

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壬生義雄書状

項目 内容
文化資源区分 書跡・典籍・古文書 / 古文書
名称 壬生義雄書状
名称よみ みぶよしかつしょじょう
所在地 栃木県宇都宮市睦町2-2
所有者/管理者 栃木県立博物館
公開状況 施設にお問い合わせください
概要  宇都宮氏一族で鹿沼城主(栃木県鹿沼市)の壬生義雄(1545~90)が、鴫山城主(会津田島城とも。福島県南会津町田島)の長沼盛秀に宛てたものです。
 天正15年の下野では、小田原城(神奈川県)の北条氏政・氏直父子に服属した壬生義雄らと、これと対立する豊臣秀吉方の宇都宮国綱とのあいだで激しい戦闘が繰り返されていました。国綱は義雄に対抗するため、鹿沼城と義雄の影響下にあった日光山との連携阻止を目指して交通の要衝・倉ケ崎(栃木県日光市)に城郭を構え、壬生氏一族ながら宇都宮氏に従う大門弥次郎らを立てこもらせました。宇都宮氏による倉ケ崎城の築城という対抗策により、義雄は宇都宮氏の軍事的な脅威にさらされることになりました。
 このように、本書状が記された天正15年の下野は緊迫した政治状況下にありました。書状の冒頭に「急度啓さしめ候」とあるように、緊迫した状況を急ぎ伝えようとする義雄の意図がうかがえます。そして、義雄が北条氏に宇都宮氏(「敵方」)が倉ケ崎城を構え(「取り立て」)たことについて報告したところ、さっそく北条氏が軍勢を派遣(「御出勢」)したとあります。北条氏の軍勢はすでに今日・明日中(「今明の間」)には利根川を越える見込みで、もし軍勢を率いる北条氏照(「奥州様」、氏政の弟)に相談等がある場合は、義雄が取り次ぐつもりであるといいます。いっぽうで、このころ京都の豊臣秀吉と北条氏の一時的な和睦(「京都御和談」)が成立したので安心してほしい(「心易かるべく候」)とも述べています。
 緊迫する日光周辺の状況については、日光山の「遊城坊」からも報告される予定だとあります。日光山は古代以来、関東随一の山岳信仰の霊場として知られていますが、中世に入ると聖俗両面での繁栄を極め、他の寺社勢力と同様に相当の武力を有した軍事的な拠点でもありました。戦国時代末期には壬生氏の勢力下にあったため、日光山の僧侶遊城坊は義雄と連携していたのです。
 いっぽう、書状の宛先である長沼氏は、もともとは本拠を長沼(栃木県真岡市)においた小山氏一族です。南北朝時代の混乱のなか、所領の一つである南会津(会津田島)に拠点を移した時期があり、現地に残った一族は独自の勢力を築きました(会津長沼氏)。南会津から南下すると下野の今市(栃木県日光市)に至りますが、このルートは会津仕置後の秀吉が通ったルートであり、江戸時代には会津西街道と呼ばれました。倉ケ崎城はまさに今市の北側に位置していました。したがって、倉ケ崎城の築城は壬生氏と長沼氏にとって脅威となることから、両者は本書状が示すとおり緊密に連絡をとっていたといえるでしょう。
 なお、倉ケ崎城は10月20日に義雄の要請を受けた北条氏の軍勢によって落城し、籠城していた大門弥次郎らは討ち死にをとげています。その後、義雄は北条氏とともに小田原城に籠城したことから改易(所領の没収)、滅亡し、長沼氏は秀吉の会津仕置により伊達政宗に従って南会津を離れました。
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