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伊達政宗書状

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伊達政宗書状

項目 内容
文化資源区分 書跡・典籍・古文書 / 古文書
名称 伊達政宗書状
名称よみ だてまさむねしょじょう
所在地 栃木県宇都宮市睦町2-2
所有者/管理者 栃木県立博物館
公開状況 施設にお問い合わせください
概要  伊達政宗が、豊臣秀吉が滞在する宇都宮に向かう途中、秀吉側近の和久宗是にあてた自筆の書状です。
 宇都宮仕置では、東北の大名も秀吉のいる宇都宮に駆けつけることになり、特に政宗は秀吉から東北での仕置にあたって先導役という重要な役割を命じられました。
 本書状によると、天正18年(1590)7月23日、政宗は居城の米沢城(「長井」)を出発し、宇都宮へと必死で急行した(「夜を日につぎ急ぎ申し候」)とあります。そして、書状をしたためた27日の夜8時頃(「戌刻」)でようやく那須野周辺(「当表」)に到着したところでした。いっぽう、政宗が出迎えるはずだった秀吉(「上様」)はすでに26日に宇都宮に到着(「其の地へ御動座」)していたのです。結局、政宗が宇都宮に到着したのは28日となり、小田原につづく2度目の遅刻となってしまいました。つまり、本書状は政宗が秀吉にあてた「遅刻の言い訳の手紙」なのです。
 「徹夜で急ぎましたが・・・」、「人馬ともに疲弊してしまって・・・」、「まだ荷物が到着していませんので・・・」、「遅刻は予想外でした・・・」、「今夜にはこちらを出発しまして…」、「明日の10時ごろには…」、並べられた数々の言い訳から政宗の必死さがうかがえます。
 しかし、最新の研究によれば、政宗が遅刻した本当の理由は別にあると考えられています。それは、来る秀吉の会津下向に備えるため、政宗は領内における反対勢力に対処していたのです。反対勢力とは、天正17年(1589)に政宗が滅ぼした二階堂氏の旧臣矢田野氏で、矢田野氏は大里城(福島県岩瀬郡天栄村)にこもりなおも抵抗を続けていました。米沢を出発した政宗は、宇都宮に向かう途中で大里城に出陣していた、これが政宗が宇都宮に遅刻した真相だったのです。政宗が米沢から宇都宮に至った想定ルートは以下のとおりです。
 23日:米沢 → 大森(福島県福島市) → 24日:郡山・須賀川周辺 → 26日:大里 → 27日:「当表」(那須野周辺) → 28日:宇都宮
 秀吉に遅刻を伝える本書状の背景には、反対勢力の制圧というもっともな理由があったにもかかわらず、政宗は一切このことについては触れず、終始ありふれた言い訳を並べています。自らの弱みを人に決してみせない政宗のしたたかさを示しているといえるでしょう。
 なお、遅刻というとんだ失態を演じた政宗に対し、秀吉は甲冑を与えるなど上機嫌で対応したことがわかっています。
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リンク 栃木県立博物館HP