県内文化資源詳細
豊臣秀吉朱印状(那須文書)
項目 | 内容 |
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文化資源区分 | 書跡・典籍・古文書 / 古文書 |
名称 | 豊臣秀吉朱印状(那須文書) |
名称よみ | とよとみひでよししゅいんじょう(なすもんじょ) |
所在地 | 栃木県宇都宮市睦町2-2 |
所有者/管理者 | 栃木県立博物館 |
公開状況 | 施設にお問い合わせください |
概要 | 豊臣秀吉が那須資晴と那須氏当主に従う大田原氏、伊王野氏ら那須衆にあてた朱印状です。 那須氏は、古代から那須郡(栃木県大田原市ほか)に勢力を築いた下野を代表する名族です。中世では鎌倉幕府の御家人としてその地位を確立し、室町時代には「関東八屋形」として有力大名の一つに数えられました。その後、一族内の分裂や再統一を経験しながら戦国大名としての実力を培っていきました。那須氏当主のもとには大田原氏、伊王野氏、大関氏、福原氏、千本氏、芦野氏らが従属し、彼らは那須衆と呼ばれました。 小田原合戦では、当主資晴は秀吉から参陣を求められましたが、静観の態度をとって出仕しませんでした。このため資晴は不参を理由に秀吉から改易(所領を没収)されてしまいましたが、那須衆の奔走もあって早くも天正18年(1590)10月、資晴の子藤王丸(のち資景(すけかげ))が秀吉から那須氏再興を許されています。このようにいったん滅亡したものの、那須氏は豊臣大名として復活したのです。 本状によると、文禄2年(1593)11月、豊臣政権五奉行のひとり浅野長吉(のち長政)・幸長父子が秀吉から甲斐国(山梨県)を与えられたことがわかります。このことを契機に、秀吉は那須資晴と那須衆に対して浅野父子の指揮下(「与力」)となるよう命じています。これにより、秀吉と那須氏の取次役がそれまでの増田長盛から浅野長吉に変わりました。つまり、秀吉は編成替え(「手寄せ」)を命じたのです。 このことは、同日付で那須氏のほか、伊達政宗や宇都宮国綱らに対しても行われていたことが確認できることから(「浅野文書」)、秀吉による宇都宮仕置後の東国の支配方針がこのさいに若干変更されたことがうかがわれます。 |
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リンク | 栃木県立博物館HP |