県内文化資源詳細
山水図
項目 | 内容 |
---|---|
文化資源区分 | 絵画 / 日本絵画(江戸時代以前) |
名称 | 山水図 |
名称よみ | さんすいず |
所在地 | 栃木県佐野市葛生東1-14-30 |
市町等 | 佐野市 |
所有者/管理者 | 佐野市立吉澤記念美術館 |
公開状況 | 施設にお問い合わせください |
アクセス方法 | 東武佐野線葛生駅徒歩8分 佐野田沼ICから車で15分 |
概要 | 高久靄ガイ 山水図 縦183.1㎝、横96.9㎝ 高久靄ガイ(1796~1843)は、下野国那須郡杉渡土(現・栃木県那須塩原市)生まれ。馬方や煙草切り職人として働くかたわら画才を現し、小泉斐(檀山)や平出雪耕に学んだと伝えられます。鹿沼(現・栃木県鹿沼市)の鈴木松亭のすすめで、本格的に画の研鑽を積みました。仙台遊歴の後、文政元年(1818)27歳で江戸に出て谷文晁に入門します。古画の模写に励んで頭角を現し、渡辺崋山らと共に「谷門四哲」の一人に数えられました。京都・大坂遊歴を経て天保9年(1838)、江戸薬研堀に「晩成山房」を構えます。伊孚九ら中国画や池大雅の画を慕い、特に山水に優れました。天保14年(1843)死去。 靄ガイの活躍の背後には、鹿沼の鈴木松亭や山口安良、江戸の豪商・大橋淡雅(現・小山市出身)ら、下野国ゆかりの支援者の後押しがありました。佐野にも須藤蘭圃ら知友があり、当地(佐野市葛生)の吉澤松堂宅にも滞在しています。松堂宛ての靄ガイ書簡からも親交がうかがえます。 本図は天保9年、靄ガイ43歳の時の大幅で、松堂のために描かれたことを示す「為書」があります。西洋画など諸派の融合に積極的だった文晁門下には珍しく、靄ガイは正統的な南画山水の画風を保ちました。米点(画家の米芾(べいふつ)が用いた横長の楕円点)を多用しつつも重苦しさのない明るい雰囲気に仕上がっています。『靄ガイ画集』所載。(注)ガイは崖のやまかんむりの無いもの |
画像二次利用条件 | 著作権なし-契約による制限あり |
リンク | 佐野市立吉澤記念美術館 |