県内文化資源詳細
大猷院・唐門
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 文化資源区分 | 絵画 / 洋画(西洋絵画含む) |
| 名称 | 大猷院・唐門 |
| 名称よみ | たいゆういん からもん |
| 所在地 | 栃木県日光市山内2388-3 小杉放菴記念日光美術館 |
| 市町等 | 日光市 |
| 所有者/管理者 | 小杉放菴記念日光美術館 |
| 公開状況 | 施設にお問い合わせください |
| 概要 | 田淵 保《大猷院・唐門》 制作年不詳 紙/水彩 49.1×32.3 ㎝ 小杉放庵記念日光美術館では⾧年〈Tabuchi〉サインの謎の画家でしたが、近年の調査でようやく田淵保(たぶち・たもつ、1872―没年不詳)という画家だと判明してきました。『和歌山県人材録 前編』(和歌山日日新聞社印刷部, 1920.11)によれば、田淵保は明治5年和歌山県那賀郡東野上村下佐々(現・海草郡紀美野町)出身。〈青波〉と号す。兄に実業家の田淵知秋。数え14 歳で京都府画学校に入学。『日本水彩画沿革陳列目録』(1916年)の略歴からとくに田村宗立に学んだと考えられますが、後身にあたる京都市立芸術大学の『百年史』(1981 年)卒業生名簿に名前が無いため、中退したと推測されます。 後藤直彦という人物の知遇を受けて上京、1891(明治24)年10 月に五姓田義松の内弟子になるも一ヶ月ほどで破門され(『明治の宮廷画家五姓田義松』神奈川県文化協会, 1986)、翌年、明治美術会教場生となって第4回展へ墨絵の《秋景》を出品。その後、原田直次郎主宰の画塾・鍾美館に入門。1895(明治28)年の明治美術会第7回展では、原田門人として3点の水彩画《不忍弁天》《不忍夕景》《亀戸天神》を出品しています。 間もなく独立して、1895~1896(明治28~29)年頃に『大阪毎日新聞』のポンチ絵を担当。1903(明治36)年1月、画家原撫松の紹介で小川一眞の写真に着色する仕事を少なくとも半年ほど続けました(丹尾安典「原撫松の日記Ⅰ」『一寸』87 号2021.12)。後輩や友人たちが次々に欧州留学を果たすなか、金銭的にそれが難しい自身の境遇を恨み、明治30 年代半ばに日光へ移り、土産絵や依頼による肖像画を制作していくようになります。その後の展覧会への出品としては、1908(明治41)年の第7回トモエ会展への《日光写生》という記録を確認でき、画商もやっていたという証言もあります(明残迂老「横浜絵物語」『武相研究印象記』武相文化協会1949)。現在確認できる最後の消息は、1912(明治45)年夏に、日光で病気療養中だった思想家田岡嶺雲が新聞へ発表した日記随筆です。ある日、田淵が訪問してきて10 年ほど日光で制作していることなど聞いたという記述があります(『田岡嶺雲全集』第6巻, 法政大學出版局2018)。 岸田劉生と三宅克己による次の証言に登場する画家は、この田淵保と同一人物と考えられます。 〈〔銀座に〕荒井真画堂という、これも額や洋画を売る店がある。(中略)日光で知り合いになった、田淵さんという風来な仙骨を帯びた古い水彩画家の画がよくここの店にあり、その後ここの主人とも知り合いになり、よく田淵さんの噂をしたものだ〉(岸田劉生「新古細句銀座通」『東京日日新聞』1927 年連載)〈銀座の真画堂がまだ先代の時代で、私は極めて些少な画料でその店に頼まれて、絹地に水彩画を描いたり、また写生画を売ったりしたこともあった。この時友人田淵保君の紹介で横浜元町の山廼井という画商に、写生画を売ることを試みた〉(三宅克己『思ひ出づるまま』三宅書房1936) |
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| リンク | 小杉放菴記念日光美術館 |