県内文化資源詳細

高久靄厓《芦華図》

代表画像
高久靄厓《芦華図》

項目 内容
文化資源区分 絵画 / 日本絵画(江戸時代以前)
名称 高久靄厓《芦華図》
名称よみ たかくあいがい《ろかず》
所在地 栃木県佐野市葛生東1-14-30
市町等 佐野市
所有者/管理者 吉澤記念美術館
公開状況 施設にお問い合わせください
概要  画を高久靄厓(一七九八~一八四三)、「芦華萬頃月明中」の詩句を江戸の流行詩人・大窪詩仏(一七六七~一八三七)が書いている。二人とも落款と共に芦の穂の筆で書いたことを記し、畳の目も写る。扱いにくい筆で見事に描くという席画向きの趣向である。
 制作地は明記されないが、吉澤松堂への為書を持つ大幅であることから、葛生(現佐野市)での松堂主催の宴席上の作か。靄厓三十八歳の年、吉澤家の現存作品の中で最も早い年紀を持つ。
 文晁一門が挿図を描いた水戸領内の地誌である黒崎洗心『漫遊紀談』(文政九年)所収の靄厓画の一つに詩仏が賛を付けており、他にも着賛例が知られる。大橋淡雅と「格別ニ親交アリ」(『淡雅雑著』)として列記された十二名に詩仏・靄厓ともに含まれる。
 高久靄厓は、下野国那須郡杉渡土(栃木県那須塩原市)に生まれた。煙草切職人として働くかたわら画才を現し、小泉斐(檀山)や平出雪耕に学んだと伝える。鹿沼(栃木県鹿沼市)の鈴木松亭の庇護下で画の研鑚を積む。仙台遊歴の後、文政元年(一八一八)江戸で谷文晁に入門、後年渡辺崋山らと共に「晁門四哲」の一人に数えられる。伊孚九ら中国画、また池大雅の画を慕い特に山水に優れた。京都・大坂遊歴を経て天保九年(一八三八)、江戸薬研堀に「晩成山房」を構える。豪商で蔵幅家の大橋淡雅(栃木県小山市出身)らと親しく往来し、『広益諸家人名録』(天保十三年)では書画鑑定を標榜している。「蛮社の獄」に際しては立原杏所・大橋淡雅・椿椿山・安西雲煙らと共に崋山救援活動を行う。天保十四年、四十八歳で急逝、淡雅の手配で谷中天龍寺に葬られる。門下に谷口藹山、山本琹谷。歿後に淡雅の勧めで川勝隆古が一時高久家を嗣ぐ。
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