国・県指定等文化財詳細

足利氏宅跡(鑁阿寺)

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足利氏宅跡(鑁阿寺)
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秋の鑁阿寺
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項目 内容
文化資源区分 史跡・名勝 / 史跡
文化財区分 国 指定 記念物(史跡)
文化財名称 足利氏宅跡(鑁阿寺)
文化財名称よみ あしかがしたくあと(ばんなじ)
指定年月日 1922年03月08日
所在地 足利市家富町
市町等 足利市
所有者/管理者 足利市
公開状況 公開
アクセス方法 JR足利駅から徒歩約15分
概要  足利市家富町にあり、現在の鑁阿寺境内である。平面は西側がやや長い台形状を呈し、土塁と水堀により四周が囲まれている。土塁は北塁より南塁が大きく(高さ1.95, 幅約11m)、水堀も同様(南幅 5.9m)で、外縁の長さは北約223m、南約 211m、東約175m、西約206mをはかり、総面積はおよそ41,300㎡を有する。さらに堀の外側には土揚げ場(幅1.8m)があったが昭和30年代に削平されている。
 源姓足利氏は、源義家の四男、源義国が足利荘を荘園として立券したのをはじまりとし、義国の次男である義康から足利氏と称することとなった。
 義康の子、義兼は治承・寿永の乱(源平合戦)で源頼朝の元に参集し、有力御家人となった。この義兼の居館であると伝承されている。建久7年(1196)に義兼は出家し鑁阿と号した。なお、文治5年(1189)に義兼が足利荘堀之内に建立した持仏堂を改めて寺とし、法名を以て寺号とするに至った。このため鑁阿寺の創建は義兼が出家した建久7年と考えるのが有力である。
 寺院として整備されるのには子の義氏が大いに尽力し、天福2年(1234)に大日如来大殿を造営するなど寺域の整備が進められた。その後は泰氏、頼氏、家時、貞氏、尊氏など歴代の頭領、さらには室町将軍家、鎌倉公方とも、鑁阿寺を己の氏寺として、厚い信仰をよせた。
 鑁阿寺は真言密教を奉じ、いま境内には大御堂(大日堂)、護摩堂、経蔵多宝塔鐘楼御霊屋楼門東西門、北門、庫裏など、大小20余の堂宇建物を擁し、ご本尊はじめ諸物や塁代寄進の品々、文書など数多くの什宝をよく保存している。
 本宅跡は、源頼朝をたすけ、鎌倉幕府の創設に功労のあった足利氏の棟梁義兼が、鎌倉時代初期に造営したのに相違なく、当時の豪族の軍事的配慮をもった居館の旧態をよく今に残す。また規模の壮大さはまさに足利氏の勢威を示し、居館が鑁阿寺として継承され、法灯を今に伝えるものであり、その存在は極めて貴重である。
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